2010年8月28日土曜日

資本主義経済



怒涛の4日間の市街地での展示会が終わりました。朝8:30~夜10:30くらいが4日続いたので、疲れました。最終日打ち上げのために展示会内のレストランに行ったら、ウェイターが完全に疲れてて、注文にも反応なし、注文したものが来ない、など対応が散々過ぎて逆に笑えた。そして、久々に村に戻ると、家の猫が子供を生んでいて、(たぶん)鶏や犬、ガチョウから守るために、洗濯機の中に保護されていました(笑)。村に戻って、養蜂の準備のために巡回して、健康診断のためにまた首都に上がってきました。

いろいろとやっていてもルーチンワークがないので、時間がたっぷりあり、そうすると考える時間が長い。来た当初は、なんだかんだいっても、収入を上げることによって、可処分所得が増え、各世帯で、医療、教育など包括的な改善が行える、と考えていた。だから、市場へのアクセスもあり、何も世話しなくても村中でなっている、オレンジ、みかん、キャッサバ、とうもろこし、などの農作物を、どうして販売しないのか、理解できなかった。別に、自分で売りに行かなくても、毎週市場に行っている村人に販売すれば、少ない労力で、収入になるのにも関わらず。

しかし、村人と生活し、話をし、本を読むことによって、若干考え方が変わってきた。彼らは、村で住むことを選択した。村内での仕事は限られているが、近隣都市(エステ市)、ブエノスアイレス、サンパウロ、スペイン、などで働くという選択肢を持ち合わせている。そうすれば、所得も増え、より物質的に豊かな生活を送る事は可能になる。しかし、所得が増える一方で、支出も高く、その分、一定の生活水準を保てなくなるリスクも高い。加えて、治安、自然環境の側面では、圧倒的に村の方が優れている。家族とともに食卓を囲み、助け合いながら生きていける。

村内では、金銭的なやりとりは減るので、当然所得が下がり=貧しい、という定義に当てはまるのかもしれない。実際に、村人が、「自分たち、貧しい人間は・・・」、と会話の中で普通に言うのには、最初は驚いた。日本人の感覚からしたら、たとえ貧しくても、恥があり、自分で自分のことを貧しい、と言ったりしないだろう。しかし、上水道設備を運営するために有志で委員会ができたり、村の狭い道をトラックがけたたましく通り子供たちの通学に支障が出るようであれば、村人が重機を運転して、道を広げたり、隣人が病気ならば、トラックを走らせたり、といったふうに、見えないセーフティーネットが存在している。村の中は、きわめて治安がよく、皆、村の中の人間で気をつけたほうがいい奴はいない、と言う。

よっぽど、都市部で、何かあっても他人の振りで、頼れる人間はごくわずか、という環境よりも、安定しているのではないか。逆に、村内で所得を上げるために、経済活動を促進し、より多くのお金が回るようにすれば、村の中で格差が広がり、結果として村内の秩序が乱れる恐れが生じる。人は、貧しいから犯罪を犯すのではなく、妬みや不満から犯罪を犯す。

だからといって、100世帯程度の村の中だけで、全てを完結させることは不可能であって、贅沢品はともかくとしても、教育や医療にアクセスするためには金が必要。なので、生活を劇的に変化させず、村人が望むレベルで、収入を向上させられるプロジェクトを組んでいこうと思う。そして、収入以外にも、外からの情報が乏しいこの村で、所得以外の部分でも、生活改善となる啓蒙活動をしていきたい。

2 件のコメント:

  1. かめるーん2010年8月31日 6:31

    面白いね。色々と葛藤するよね。開発の必要性や意義について。これすごくわかる。
    農村においては食料や、ひでがあげるようなセーフティネットが存在するから、必ずしも現金が重要ではない。
    でも完全は地産地消、循環型経済、自給自足というのはこのご時勢不可能。情報は無限に入ってくるからね。
    だから外貨は生きていくために必要なんだよね。じゃあどうやって稼ぐか。稼ぎ方によって村内格差が生まれる等色々考えるよね。

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  2. かめるーん
    そう。いずれにしても、競争社会に(からの)アクセスがある限り、変化することは必然だね。

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